フィル・ナイト
フィル・ナイト
ナイキ 創業者
1938年オレゴン州ポートランドに生まれた。幼少時代から陸上競技のチームに所属し、熱心なランナーだった。1959年オレゴン大学に入学し、大学時代は陸上で将来を嘱望されたランナーになった。1964年、大学時代のコーチのビルバウワーマンと共にブルーリボンスポーツ社を設立。その後、1978年に、ブルーリボンからナイキに社名を変更した。この年には7100万ドルの売り上げ高を誇った。1980年にはナイキの株式公開を行い、1983年には売上高1億4900万ドルになった。その後、スーパースターを起用した革新的なマーケティングで一躍世界のブランドになる。
略歴
・1938年 オレゴン州ポートランドに産れる
・1959年 オレゴン大学で経営学の学位を取る
・1962年 スポーツシューズのメーカーを調査するため日本を訪れる
・1964年 ビル・バウワーマンとともにブルーリボンスポーツ社を設立
・1978年 ブルーリボンスポーツをナイキに社名変更。売上高7100万ドル
・1980年 ナイキの株式公開
・1983年 売上高1億4900万ドル
・1985年 「エアジョーダン」発売
・1993年 戦略の見直しを行う~
リーダーとしての大きな特徴
1.革新的マーケティングの構築力
・「アスリートからトップダウン」
当時運動靴というのは、大衆に向けた生産・マーケティング、販売を行っていた。しかしナイキはトップアスリートを意識して商品開発販売をおこない、実際に大きな大会ではいてもらうことで、大衆にも広める作戦をとった。大々的におこなったのがナイキが最初であった。
2.自分の興味関心を突き詰める素直な行動力
・「オニツカタイガー」
当時まだ世界的に有名ではなかった日本のスポーツシューズにいち早く興味関心をもったナイトは、大学院卒業後すぐに日本にとび放浪したのちにオニツカと出逢い交渉を重ねた結果、販売権を獲得した。
3.ビジョンを持ったリーダーシップ力
・「ナイキはスポーツ関連企業だ!」
1990年代初期、アメリカではジョギングブームに沸いていた。ナイキも一気にジョギングシューズを生産し潤った。しかしその絶頂期の最中、ナイトは「われわれはスポーツ関連の会社であって、ただのシューズメーカーではない」と思い立ち、テニス、ゴルフなどスポーツ全般にビジネスを拡大した。それがのちにアガシやタイガーウッズなどとの契約、ナイキの躍進に繋がって行った。
次世代のマーケティング方法を確立した奇才の起業家
リーダーシップ・エピソード
1.自分の感覚を信じ努力を惜しまない起業家
スタンフォード大学院を卒業時に、フィルはすでに日本のランニングシューズに興味をもっていた。彼が卒業する前に書いたビジネスプランは、「日本のカメラがドイツのカメラに勝ったように、日本の靴はドイツの靴に勝てるのか」というものだった。当時日本の靴に注目していた者は少なかった。フィルは卒業後、その思いを元に日本を旅し、当時人気があったオニツカタイガーにほれ込んだ。そこから一年以上の時間をかけて、アメリカでの販売にこぎつけたのだ。
2.感謝はしっかり示す男
ナイキのロゴは現在世界で最も影響のあるロゴの一つになっている。実はこのロゴは、フィルが大学の講師をしていた際に、ロゴを作成してくれる女学生、キャロラインにお願いし、いくつか作らせた中から選んだものだった。そのお返しに35ドル支払った。しかし会社がIPOを果たした3年後、フィルはそのロゴの功績を改めて認め、キャロラインに株式とダイヤモンドリングを贈呈し、感謝の意を示した。
3.感情的な絆を大事にするが、独裁的
ナイトは、従業員との間で感情的な絆を重視していた。彼は、年に一度トップ30人ほどを集めてオレゴンの山奥で泊りがけのオフサイト戦略ミーティングを開いてた。終日のミーティングが終わるとディナーが用意され、その後の飲み会になると本音が出て相当の激論になったりした。そこでついフィルと口論となった人が、翌朝の会議ではいないということもあった。
フィル・ナイトの名言
"チャンスは逃すな"
「人は誰でも、幸福になる資格があり、幸福をつかむかどうかは自分次第、これが私の信条だ。シンプルな哲学である。 」
私は一夜にして成功を収めたと思われているが、
その一夜というのは三十年だ。思えば長い長い夜だった。
参考文献 参考URL
- 『the nike spirit in the corporate world just do it』 (1996年 早川書房 著者 ドナルド・カッツ)
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