リーダー列伝

本田宗一郎

本田宗一郎

1906年11月17日 静岡県生まれ
本田技研工業(株)創業者
戦後の日本が生んだまぎれもないビジネスヒーロー。
幼き頃に抱いた夢の実現に生涯を賭け、成し遂げた男。
その類まれなる人徳は多くの人を魅了し、その遺伝子が
今もなお「ホンダイズム」として脈々と受け継がれている。

略歴

・終戦後、本田技術研究所を個人創業し、通称「バタバタ」を発売。
・1948年 本田技研工業(現ホンダ)を創立。翌年 、藤澤武夫と運命の出会い。
 以降、オートバイ「ドリーム号」、「スーパーカブ号」などを次々に開発・発売し、
・1955年 には二輪車生産台数が国内トップに。
 四輪車にも進出し、欧米でいち早く現地生産を開始。
・1964年 F1レースに参加、翌年 初優勝を果たした。
・1973年 社長を退任し、取締役最高顧問就任。
・1989年 日本人初の米国「自動車殿堂」入りを果たす。
・1991年 他界 享年84歳

リーダーとしての大きな特徴

1.夢を実現させた未来志向の「あくなきチャレンジ精神」

「幼き頃よりの夢の実現」
「自分で製作した自動車で全世界の自動車競走の覇者になる!」という夢とあくなき挑戦心が社員を力強く
夢の実現へと牽引した。

2.個性を重んじ平等を貫いた「超モチベーション喚起力」

「個性重視」
「自分と同じ性格の人間は二人もいらない。目的はひとつでも、あらゆる個性や能力を持つ人間と一緒にやっていきたい」 という、個性を 重んじる姿勢を重視した。また、「会社経営の基本は平等にある。上役、下役の差別扱いもよくない」 という平等の精神が社員を活気づけ、個性発揮の社風を生んだ。

3.「世界のHONDA」を実現した「先見力と合理性」

「現場主義」
「現地に工場を建てたら、まずその土地の人たちを富ます方法を考えねばならない」 という三現主義を徹底する合理性が「世界のHONDA」を築き上げた。

夢を追い、現実を開拓した、
「夢多きモダニスト」

リーダーシップ・エピソード 

1.オヤジさん

本田宗一郎は社員から「オヤジさん」と呼ばれ慕われていた。社員は何よりもオヤジを喜ばせることを目標に頑張っていた。オヤジの笑顔に触れることが生きがいだった。一方、本田はあまり社員を褒めなかった。また、会社経営の根本は「平等」にあるという信念から、エコヒイキは一切せず、自宅へ社員を招いたことは一度もなかった。

2.ホンダ太陽

本田は盟友である井深大との縁で大分県に障害者が働ける会社「ホンダ太陽」 を設立した。「世に心身障害はあっても、仕事に障害はない」と提唱し、社会福祉法人を設立していた整形外科医の中村裕の案内で、重度の身障者が懸命に作業する様子を見た本田は「どうしてだ。涙のやつがでてきてしょうがないよ。」と
感動し、「ホンダ太陽」の設立を決意した。

3.盟友、藤澤武夫に捧げた言葉

1988年12月に本田と「クルマの両輪」と呼ばれ、ホンダのもう一人の創業者である藤澤武夫が他界したとき、本田は亡き盟友を思い、このような言葉を捧げた。

「燃えるだけ燃え、二人とも幸せだった。
 二人一緒のときは思い出話などしたことはなく、将来の夢しかなかった。」

本田宗一郎の名言

人は、よく可愛いからこそ怒るなんていうが、俺は違う。
本当に憎たらしいんだ。
なぜなら、俺たちのつくっている商品は人命にかかわるもんだから。
それをないがしろにするヤツは、絶対に許せねえ。

好きなことをやれ!
そうすりゃ、
それがやがて社会に役に立つ!

参考文献 参考URL

  1. 「本田宗一郎夢を力に―私の履歴書」 (著 本田宗一郎/日本経済新聞社)
  2. 「やりたいことをやれ」 (著 本田宗一郎/PHP文庫)
  3. 「得手に帆あげて」 (著 本田宗一郎/三笠書房)

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