藤沢武夫
藤沢武夫
1910年11月10日東京都生まれ
本田技研工業(株)のもう一人の創業者。
京華中学卒業後、日本機工研究所を設立。
戦後、本田宗一郎を知り、1949年、本田技研工業に常務として 入社。
本田宗一郎と「車の両輪」と呼ばれ、経営を担当し、
類まれな経営センスを発揮し、技術部門を担った本田と共に
世界のホンダの基盤を作った。
略歴
・1928年 京華中学校卒業後、日本機工研究所を設立
・1949年 本田技研工業(株)常務取締役として入社
・1952年 専務取締役に就任
・1964年 取締役副社長に就任
・1973年 取締役副社長を退任、取締役最高顧問に就任
・1983年 同取締役を退任、最高顧問に就任
・1988年 他界 享年78歳
リーダーとしての大きな特徴
1.世界のホンダを築き上げた「超マーケティング力」
「マーケッター」
カブF号を売るために日本全国にある自転車屋に目をつけ、DMをばら撒いた。その際、自転車屋に信用してもらうため、三菱銀行京橋支店の支店長に頼み「振込みは当行へ」という手紙を添えた。
2.エキスパートを育成し集団思考を可能にした「組織構築力」
「ワイガヤ」
藤沢は現場に散らばっていた役員を一つの会議室に集めた。ここで繰り広げられる議論は後に非常に高いレベルの集団思考を生んだ。そのガヤガヤした議論のやり取りから「ワイガヤ」と呼ばれ、次の世代の育成を可能にした。
3.本質を見失わずホンダにとってのベストを実践した「本質追求力」
「空冷水冷論争」
CVCCの時、空冷エンジンにこだわる本田と、水冷エンジンをやりたい技術者とで意見が分かれた。藤沢は本田に対して「あなたは本田技研の社長としての道をとるのか、あるいは技術者として残るのか。どちらかを選ぶべきではないか?」 と問いかけ、本田宗一郎に水冷エンジンを認めさせた。
持ち前の経営力で舞台を整え、シナリオを用意した
「舞台裏の名演出家」
リーダーシップ・エピソード
1.スーパーカブ
藤沢は本田に、「横に寝ているやつが、買ってもいいわよ、というクルマにしてくれ」と頼んだ。つまり、奥さんが亭主にOKを出すような二輪車という意味である。 そうしてスーパーカブが生まれたが、販売は藤沢の役目だ。まずはDMを全国に ばら撒いた。加えて、「ソバも元気だ、おっかさん」という名コピーを生み出し、その後のロングセラーを築きあげたのである。
2.海を越え、アメリカへ
営業課長の川島は「海を越えるなら東アジアからだ」と主張した。それに対し、藤 沢は「アメリカに行け。資本主義の牙城、世界経済の中心であるアメリカで成功 すれば、これは世界に広がる」と伝えアメリカへ渡らせた。そしてスーパーカブは まず大学生から浸透しはじめ、誕生日プレゼントにされるまでの爆発的な人気を 獲得した。そこで生まれた名コピーがその人気を物語る。
「You meet the nicest people on a HONDA.(すばらしき人、ホンダに乗る)」
3.万物流転の法則
藤沢は「万物流転の法則」というものを頻繁に口にした。「どんな富と権力も必ず滅びるときが来る。しかし、だからこそ本田技研が生まれる余地があった。だが、この万物流転の掟があるかぎり、大きくなったものもいずれは衰えることになる。その掟を避けて通ることができるかどうかを勉強してもらいたい」と伝えてきた。
藤沢武夫の名言
たいまつは自分で持て。
経営者とは3歩先を読み、2歩先を語り、
1歩先を照らすものだ
参考文献 参考URL
- 「経営に終わりはない」 (著 藤沢武夫/文藝春秋)
- 「松明(たいまつ)は自分の手で」 (著 藤沢武夫 /PHP研究所)
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