大野耐一
大野耐一
1912年2月中国大連生まれ
トヨタ「かんばん方式」の生みの親。
戦後、豊田喜一郎のジャスト・イン・タイムをかんばんを使って
生き返らせ、発展させた立役者。「モノづくりは人づくり」を
モットーに、人を活かすことを主眼においた人物。
「トヨタ生産方式」を通じ、自動車産業のみならず、
全ての産業の発展に寄与した人物といえる。
略歴
・1912年 中国大連生まれ。
・1932年 名古屋高等工業機械科を卒業後、豊田紡織入社。
・1943年 トヨタ自動車工業に転籍。
・1949年 機械工場長に就任
・1954年 取締役就任。同年 スーパーマーケット方式が一部の工場で導入
・1963年頃 「かんばん方式」が全工場へ広がる
・1975年 副社長に就任し、1978年 まで務める。
・1990年 他界 享年78歳
リーダーとしての大きな特徴
1.人の可能性を挽き出す「人を活かす仕組み構築力」
「モノづくりは人づくり」
大野耐一は「モノづくりは人づくり」であるとし、その先に経営があり、事業があると考えた。そして誰よりも「人の知恵・可能性」を信じていた。「全てお膳立てするのではなく、現場の知恵を活かして一緒にやるように」と指導した。
2.ジャスト・イン・タイムという構想を実現した「限界突破力」
「かんばん方式」
「夢のような話だが、決して実現不可能とも言えない。難しそうだが、やれないわけではない。」 大野耐一は当初、ジャスト・イン・タイムについてこう語り、そこから彼の人生を賭けた挑戦が始まったのである。
3.人と現場を知り尽くし、緊張を与え続けた「鋭い洞察力」
「緊張感」
大野耐一が工場に現れると、一気に緊張がみなぎったという。そして、そこらじゅうを真剣に叱りまくることになる。現場を知り尽くしている、それだけでなく、人に対する鋭い洞察力を備えていた。だから全てを合理的に指導することが可能であり、それが緊張感をもたらしたのだ。
モノと人に通ずることで、その両方を最大限に活かした、
「現場と社員の名コーチ」
リーダーシップ・エピソード
1.帽子
大野耐一は生産現場に入るとき、決して帽子をかぶらなかった。かつて耐一のやり方に腹を立てた気の荒い職人にハンマーで殴られそうになった経験があっ たからである。以来、どうせ殴られるなら帽子をかぶっていてもいなくても同じだ という覚悟でのぞむようになった。それは、同時に、「やれるものならやってみろ」 という現場改革に対する決死の覚悟の表れでもあった。
2.爆弾を落とす
大野耐一は工場長時代に、社員から「そこらじゅうに爆弾を落としていく」と評された。つまり、工場に足を運んでは、言ったことが一週間たっても出来ていないと、顔を真っ赤にして「何だあ!?」と怒鳴りだし、時には材料をバーンと床に放り投げることもあったという。世に知られる「かんばん方式」はこうした怒鳴り声から生まれたものである。
3.大神様
トヨタ自動車の養成工1期生の面々から大野耐一は「大神様」と呼ばれていた。 神様よりも偉い存在ということである。神様の指導のもと、戸惑いながらも1期生 たちは大神様の言葉を現場に定着させていった。1973年にまとめられた冊子 「トヨタ式生産システム」には「かんばん方式は、生産現場の知恵の結晶である」
と書かれている。
大野耐一の名言
百聞は一見にしかず、
百見は一行(行動)にしかず。
「なぜ?」を5回繰り返せ。
参考文献 参考URL
- 「トヨタ生産方式」 (著 大野耐一/ダイヤモンド社)
- 「大野耐一の現場経営」 (著 大野耐一/日本能率協会マネジメントセンター)
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