出光佐三
出光佐三
1885年〜1981年。出光興産創業者。
九州の門司で石油販売業を始め、持ち前の才覚で業績を拡大。その後、敗戦で海外資産を喪失。さらに、海外のメジャーと言われる石油会社、及び政府の度重なる圧力を受ける。しかし、「人間尊重」の経営を貫き、一代で原油輸入から精製、販売まで携わる民族系最大手となる石油会社を築いた。
略歴
1885年 福岡県生まれ
1905年〜09年 神戸高商所属
1911年 卒業後、2年の丁稚を経て、出光商会を創設
1919年 販路拡張と海外展開
1945年 敗戦により国内外の事業消滅
1953年 石油のメジャー支配に挑戦した「日章丸事件」
1957年 出光初の徳山製油所の建設
1963年 高度成長期による事業拡大 千葉製油所建設・石油開発事業に進出
1974年 石油危機の衝撃と対応代替エネルギーへの取り組み
1981年 永眠
リーダーとしての大きな特徴
1.「人間尊重」を中心に据えた経営
「大家族主義」
出光は常々、「社員は家族だ。家計が苦しいからといって家族を追い出すことが出来るか」と語った。そして常識破りの「四無主義=クビなし、定年なし、出勤簿なし、労働 組合なし」を掲げた。この四無主義の下で育てられた出光社員の猛烈な働きぶりは、国内外 問わず、競合他社を圧倒するものであった。
2.「消費者本位」を貫く事業方針
「大規模大組織小売業」を実践
出光は戦前、戦中、戦後を通じて、石油の卸~小売りを一貫して行い、かつ広範囲で実践するという「大規模大組織小売り業」というビジネスモデルを確立させた。これは、拝金主義が蔓延り、消費者よりも生産者優位な商売がまかり通る中で、神戸高商時代の恩師からの教えである「生産者と消費者の間に介在する社会的責任を持った唯一の商人たること」を出光が形にしたものであった。
3.既得権益に対する徹底した反骨精神
「外圧への徹底抗戦」
出光は「消費者本位」ではない政策、取決めに対しては徹底的に 反抗をした。戦後の「官僚主導による出光興産の集中排除指定」や「出光封じ込めを狙った 石油業法」「海外石油メジャーによる石油輸入規制」など度重なる圧力にも屈せず、正面か ら戦い続けた。
戦後、唯一の民族系石油企業を創り上げた
「士魂商才」を貫く「日本の石油王」
リーダーシップ・エピソード
1.財産を失っても、クビ切りなし
第二次世界大戦後、国内外の資産をほぼ失った出光商会。残されたものは、約1000名の従業員と国内の借金だけだった。しかし、出光佐三は一人の従業員のクビを切らなかった。出光は当時をこう語る。
「事業は借金が残ったが、出光には人材がいる。これが唯一の資産であり、これが今後の事業を作る。
人間尊重の出光は終戦にあわてて馘首(かくしゅ)してはならぬ。」。その後、ラジオ修理事業、農業、漁業、タンク底油さらい事業などを行う。結果、これらの事業を任された人材が、その後の出光興産躍進の立役者となる。
2.出光佐三の魅力に惚れ込んだ多くの支援者の存在
戦前、戦中、戦後と出光は何度も資金繰りに悩まされた。しかし、その都度、出光の魅力に惚れ込んだ人たち(資産家・銀行等)が資金提供を行い、出光商会の窮地を救った。出光商会創業時に、資金提供を行った資産家「日田重太郎」は当時25歳の出光に対し以下のように語った。
「この金は君の心持にあげるのだから返すに及ばん。むろん利子なんかいらん」。
出光は日田からの6000円を元手に、その後会社を拡大していくことになる。
3.敗戦後の日本人に勇気と希望を与えた’日章丸事件’
1953年5月、出光佐三率いる出光興産は、イギリス系石油会社のイラン国有化問題でイギリスと係争中で あったイランに、自社船の「日章丸(2世)」をさし向け、約2万2000キロリットルにものぼる大量のガソリン・軽 油を買い付けて国際的な注目を浴びた。メジャーズ(大手国際石油資本)によるイラン石油ボイコットの圧 力に負けず、「世界的な石油資源国イラン」と「消費地日本」を直結した。結果、年間数百億円もの国内製 品の値下がりをもたらし、消費者に多大な利益を与えた。勝戦国であるイギリスの圧力に屈しなかった出 光の毅然たる態度は敗戦後の日本人に勇気と希望を与えた。
出光佐三の名言
馘首(かくしゅ)はならぬ、 仕事をつくれ
黄金の奴隷たるなかれ
科学、技術の進歩の前に人間の尊厳が確立されていなければならない
参考文献 参考URL
- 『海賊と呼ばれた男』(2012年 講談社 百田尚樹著)
- 『出光佐三~黄金の奴隷たるなかれ~』(2012年 ミネルヴァ書房 橘川武郎著)
- 『出光興産ホームページ~人間尊重の百年~』
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