ジョン・ピアポント・モルガン
ジョン・ピアポント・モルガン
1837年コネチカット州ハートフォード生まれ。
アメリカの5大財閥の1つである、モルガン財閥の創始者。投資家、銀行家、社会奉仕家でありそして金融業と産業界を合併し支配する傍ら芸術品収集に励んだコレクターでもあった。20世紀初頭、モルガンが絶頂期の頃、彼とビジネスパートナー達は多くの大企業に財政投資を行なった。
1901年までに、彼は世界で最も裕福な人物の1人になっていた。
略歴
1837年 アメリカ コネチカット州ハートフォード生まれ
1851年 数々の教育を受けたあと、ボストン・ハイスクールに入学
1852年 リウマチ熱にかかるものの、1年後に回復
1857年 父の経営する銀行のロンドン支社に入社
1860年 J・P・モルガン・アンド・カンパニーを設立
1871年 フィラデルフィアの銀行家であるアンソニーJドレクセルと提携し、
ドレクセル・モルガン・アンド・カンパニーを設立
1895年 J・P・モルガン・アンド・カンパニーへと名前変更
1913年 他界
リーダーとしての大きな特徴
1.自信家であり、大胆
「思い立ったらすぐ行動」
モルガン氏の祖父は、9世紀初頭、アメリカ建国以来、最悪の
金融恐慌に底値で株を買いまくって財産を作った。そんな祖父の教訓は、「アメリカの未来に
弱気になる男は、必ず一文無しになる」というものだった。その教訓を受けつぎ、数々の大胆な
行動でモルガン氏は周囲を驚かせていた。例えば、父親のパートナー会社で働き始めた
モルガン氏は、ある日出張先で偶然買い手を捜しているコーヒー豆の積荷を見つけ、
本社の許可も得ずに即決で取引をまとめてしまった。しかし、本社からの叱責が届くころには、
すでにそのコーヒー豆を売りさばき、相当の利益を得ていたという。
2.愚直な努力家
「相手より詳しく」
モルガン氏は、鉄鋼、鉄道、金融政策までいったんその対象を決めると、
隅から隅まで研究し、徹底的にそのリテラシーを磨き、専門である取引相手よりも詳しく
なったと言われている。
3.利益にこだわる貪欲さ
「人を見る目」
モルガン氏は、最終的に取引を決めるときは、その相手の人間性で判断していたと言われている。相手の能力、技量、弱みなどを含めて、その人自身を見つめ、自らが判断すれば、無一文でも100万ドルの小切手を切ることもあったという。しかし、その根底に
あるのは、モルガン氏の博愛というよりも、利益にこだわる貪欲さだった。人間性の優れた人物のほうが、結果的に利益をあげられることを見抜いていた。
アメリカ5大財閥の一つであるモルガン財閥を創設し、大きな財を成した
「恐ろしく賢い金融王」
リーダーシップ・エピソード
1.モルガニゼーション
モルガン氏はとにかく効率と利益を求める。「非効率的な運営を行う産業を、買収やトラストという方法を通じて効率化する」ことを理念として、活動していた。モルガン氏が行った、経営困難に陥っている会社を再建させる手法を、モルガニゼーションと呼ぶ。モルガン氏は、これらの会社について、事業の骨格とマネジメントを再編し、利益が出せるようにした。
2.アメリカの救済
金本位制交付前の1893年、金準備高が経済を安定させる半分のレベルまで落ち、アメリカに
再び経済危機が訪れたとき、モルガンは国を救う行動に出た。大統領と交渉を続け、モルガン
の発案した壮大な政策に対して、モルガンは債務の保証を約束した。その後、モルガンの資金
提供のニュースが出ただけで、ウォール街は活気を取り戻し始め、ドルは危機を脱した。
しかし、その裏では実は、モルガン氏自身が莫大な利益を得ていたと言われている。一見、
捨て身のような大胆な援助の申し出は、国家の利益と個人の利益が合致することを見抜いた
合理的な行動だった。
3.鉄道の大再編を引き起こす
1889年~1890年、モルガン氏は、不況に陥っていた鉄道会社の首脳を集めた会議を開き
鉄道会社が新法に合わせた営業活動を行うことと、
「公共的で、安価で、一定で、安定した運賃」を維持するための協定を結んだ。
この会議は競合する鉄道会社同士のコミュニティとして機能し、
20世紀初頭の鉄道の大再編への道筋となった。
ジョン・ピアポント・モルガンの名言
その会社に投資するかの判断は何をおいても相手の人格です。お金で人格は買えません。金よりも何よりもまず人格が大切です。私の信頼を得られない人物は、私から金を借りることはできません。
私が一つの会社を買収し立て直す時、名誉にかけてそうせねばならぬと考えるからだ。その会社を守るという経営者としての道義的責任がある。
眠れぬほど、株を持つな。
参考文献 参考URL
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