リーダー列伝

似鳥昭雄

似鳥昭雄

ニトリ 創業者
1944年樺太生まれ、終戦後は札幌市で育つ。北海学園大学経済学部卒業後、広告会社に勤めるが仕事が獲れず半年で解雇となり、23歳で似鳥家具店を創業した。1972年、家具業界向けのアメリカ・ロサンゼルスへの研修セミナーに参加し、アメリカの豊かさを見て人生観が変わる。帰国後、家具のチェーンストアを志し、株式会社ニトリを設立した。将来、世界5万店舗を目標にしている。母校の北海学園大学に寄付講座を開講や、私財を投じて留学生のための奨学基金を設けたなど、社会貢献活動も行う。

略歴

・1944年 樺太に生れる
・1962年 北海道工業高等学校卒業
・1964年 札幌短期大学卒業、北海学園大学編入
・1966年 北海学園大学経済学部卒業後、父の会社で勤めるが数か月で挫折
     その後、札幌の広告代理店に就職するが解雇
・1967年 似鳥家具店を札幌で創業
・1972年 株式会社ニトリ(現株式会社ニトリホールディングス)設立
・1994年 インドネシアに家具工場を設立
・2002年 東京証券所に株式上場

リーダーとしての大きな特徴

1.顧客の事を最優先&常に先を読む経営

・「経営者は常に先を読め」
似鳥はバブル景気に踊るアメリカを視察した時、「いつかバブルははじける。その時必ず日本にも影響があり不景気になりお客様は低価格なものを求めるだろう」 と考え、2006年から不景気の中でも値下げができ、なおかつ増収増益になる強靭な体制作りを始めた。それにより、リーマンショックの影響を受ける日本で一気に優位に立ち、ニトリを勝ち組に導いた。

2.使命感に満ちた経営 (戦後見たアメリカ)

・「欧米並みの住環境」
似鳥が27歳の頃、ロサンゼルスに視察するツアーに出かけた。
実際渡米してあまりの違いにショックを受けた。値段の安さ、品質のよさ、豊富な品ぞろえ。どれをとっても日本とは比べ物にならなかった。この時「かならず日本人に欧米並みの住環境を提案したい」と思った。この想いを胸に、SPAを使った快進撃がはじまった。

3.常に退路を断つ経営

・「改善&退職」
軌道に乗らなかったインドネシア工場の品質改善のため、また、買収した丸光の低コスト高品質商品をつくるためにも、言った言葉がある。
それが「向上できなければ工場は閉鎖、撤退だ」

「使命感を感じ、純粋に顧客満足に向き合う経営者」

リーダーシップ・エピソード 

1.一社一丸となるアメリカ視察ツアー

ニトリでは正社員とパートを含めた約800名を、毎年一回のアメリカ視察ツアーに行かせている。ロサンゼルス4日間、ラスベガス3日間である。費用は会社持ちだ。似鳥は言う、「正社員からパートまでが同じ体験をし、アメリカのホームセンターの凄さや、安さを肌で感じ、それを職場で活かしてほしい」と願う。これにより、毎年アメリカの最新トレンドを肌で感じシェアすることで、自らの職場で社員とパートが隔たりなく、一社一丸となるという。

2.家具屋を始めた理由

似鳥が大学を卒業して父の会社に入社したが、あまりの肉体労働のきつさに挫折。その後広告代理店の営業マンになるが、一カ月のノルマを越えれずに数か月で解雇。どん底にいた彼に父が「お前みたいな人間が生きていく方法が二つある。一つ、人の3倍働くか、二つ、それとも人がやらないことをやるかだ。」  似鳥は振り返る「当時父が言いたかったのは、沢山働くか、まだ誰もやっていないビジネスを興せということだったのだろう」 しかし似鳥は単純に自分の街を見回した。すると「ここには家具屋がないな。じゃあやるか!」と、その土地にない商売をしようと決めた。これが今のニトリの創業のきっかけとなった。

3.師(渥美俊一)の言葉を忠実に実行

似鳥がアメリカのチェーンストア経営についてどうすればいいか悩んでいた時、経営コンサルタントでありチェーンストア研究団体ペガサスクラブを結成していた渥美の本に出逢う。彼の考えに感化された似鳥はすぐにペガサスクラブに入り、厳しい勉強会に必死でたえた。渥美という師の言葉を忠実に実行するようになったニトリは、その後ドンドンその頭角を現し、現在の成功につながって行った。

似鳥昭雄の名言

人生において師を持つことは大切です。それも厳しければ厳しいほどいいのです。親父代わりとも呼ぶべき恐ろしい大師匠、渥美俊一先生の出会いがなかったら、現在のニトリはありません。
儲けようと考えていたら、お客さんは逃げていきます。まずは心の中から、儲けたいという思いを取り除かなければいけないんです。

参考文献 参考URL

  1. 『NHKテレビテキスト 仕事学のすすめ』(2011年 NHKテレビテキスト 著者 似鳥昭雄)

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